1. 本を大量に読んでいることを「努力」だと認識される(よく努力家だと勘違いをされる)
2. 知的な人だと思われたいから読むのだと思われる
1. のように認識する人は、多くがあまり本を読む習慣がない人、もしくは読むことを何らかの目標を達成するための手段だと思っている人が多い。読むことをあまり楽しめないのだろう。
2. のように認識する人はある行為を行うことによって帰結する現象を他者からの評価に求める人が多い。他者からの評価につながらないことを黙々とやることの価値を感じられないのだろう。
これについては、アニオタの人たちがすこしうらやましい。彼らがそれを好きだと言うとき、「好きなんだねー」で会話は終わるけれど、対象が本だと変な意味付けをされてしまう。いや、アニオタでも変な意味付けをされてしまうのかもしれない。人は自分のようには相手を理解できないものだ。
忙しくて本を読まなかった時の自分の気持ちの有り様を認識するにつけ、私にとっては読書こそがエネルギーの源であることがわかった。読書によって広がる知見や、過去の人物たちの思索の跡や、体験や感情が自らの中で疑似体験されるような時、最も大きな喜びを感じる。書物を通して、私は彼らと対話をしている。つまり、本オタクなだけなのである。
アルビン・トフラーが「未来を見るためには、本をたくさん読まなければならない。私も、”読む機械”と呼ばれるほど読書を愛している」と言っていた。彼ほどの知性を持てるとは思わないけれど、私も”読む機械”になろう、と思う。それで少しでも未来が見えるなら。
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