2014年7月2日水曜日

集団的自衛権について意見が分かれる原因となる2つの現状認識

集団的自衛権の行使について安倍政権によって閣議決定された。Facebookを見ていると、反対している人が多い。若干賛意を示している人もあるが、少数派だ。ふつうに考えると、今回の閣議決定は道理が通っていない。けれど道理が通ってないからといって例えば20年後の日本人がこの閣議決定をどう評価するかは正直、不確実すぎてわからないな、と思う。

そして反対派、賛成派の議論のレイヤーのズレがはげしくて議論にならない感じは、脱○○の時の議論と似てるなー、とも思う。個人としてこの問題に対する結論はまだ出せてないけれど、それぞれの人々がどのような情報のインプットと思考によってそれぞれの主張になっているのか、ということを考えてみたい。(カナダにいるので、あくまでインターネット上の情報のみを根拠としており、間違っていること多々あると思います)


人々の間に意見の相違が発生するのは下記の3点が原因になる。

1.情報のインプットが違う(内容・量)
2.情報のインプットに基づく分析の結果が違う
3.立場(利害関係)が違う


インターネットのメディアとしての特徴は3.が出発点としてある上で、1については似通ってる情報ばかりを集めることに優れているということだ。反対派は反対派同志で同じような記事を読む。その上で2.の分析結果が構成される。推進派もしかり。結果としてネット上でかみ合わない文章がすれ違うことになる。

<反対派の論点>

反対派の論点を見ながらこのことを考えてみたいと思う。

1. 立憲主義を崩してしまう

これは論理やファクトを大事にする人でどちらかといういうとリベラルな人に多い。で、この人たちは論理を大事にするので言ってることもよくわかる。確かに、どう考えても憲法の解釈を閣議決定で変更する、というようなことが正当化されるはずがない。
一方で今の現状と憲法の解釈が正しいのかというと、そうでもない。自衛隊という軍隊に限りなく近いものを持っている時点で今の状態はすでに十分に違憲だろう。で、その状態は国民投票によって作り出されたのではなく、今回と同じようにアメリカと日本政府の解釈の変更によって作り出された。もともと道理に合っていないのだ。
しかし立憲主義という日本のあり方を守る、ということを考えるときちんと改憲の作業が必要だ。これは至極もっともな議論である。

では、この立憲主義を守る、ということ以上に集団的自衛権を閣議決定で決めてしまうことが妥当だと感じる人たちはどうしてそう感じるのだろう。


→仮説1: 中国の台頭とアメリカの影響力の低下による、世界の安全保障体制の変化をどう捉えるか

両者の議論の相違が起こる理由として大前提には「中国の軍国主義的な台頭」に対する認識の違いが原因として大きいのではないだろうか。

反対派の人々に共通しているのは、世界の安全保障体制の変化をあまり認識していないように見えることだ。「戦争は嫌だ」と単に叫ぶのは簡単だ。むしろ「戦争は嫌だ」というのはおそらく右派に分類される人たちも同じだろう。特に経済活動に従事する人たちは、戦争のない安定した社会というものがなければ経済活動を効率的に行うことができないことから、平和な社会への欲求は強い。


http://bylines.news.yahoo.co.jp/inoueshin/20140701-00036921/

例えば上記の記事で不思議なのは、中国の脅威について全く触れていないことだ。この記事はアメリカの世界戦略の転換、特にオフショアバランシングに触れているなど、世界に関する認識について右派と認識は大きくずれていないように思える。ただ、不思議なことに右派が感じる中国の脅威に全く触れていないという点で、右派からすれば非常に一面的なものに見えるだろう。この人の言説だけを読む人はアメリカにコントロールされる日本が不必要な戦争に巻き込まれる、としか読まない。こういう態度は「右翼と左翼の違いって何だろう」に書いた左派が問題は国内にある、というバイアスを持ちがちであるという指摘をほうふつとさせる。

日本の左派の弱さは、中国の台頭に対して人々が感じる恐怖に対して明確な対応策を提示できないことだろう。日本のリベラルの残念なところは右派が提示しているような外国勢力からの脅威に対して対抗できるような具体的、実践的な方策を持ち合わせた人々が存在しないことである。これはアメリカの政治状況と比較してみるとわかりやすい。リベラルである民主党でさえ、一定の中国対策は提示できているし、実行している。なぜなら国民国家にとって国防は最も基本的な機能だからだ。

だから、必死に集団的自衛権反対を叫ぶ人々は、一度自分が日本という国の国防の責任者だったらどうするんだろう、ということを考えてみるとよいと思う。推進派に勝ちたいのだとしたら、推進派の論拠と感情についてよく理解しておくことは決して損ではない。安全保障や国防が大事だという人に対して、右翼というレッテルを張って思考停止してしまうのではなく、なぜ彼らはそう感じるのかを考えてみてはどうだろうか。むしろ、リベラルでありながら国防を考えることができる人が現れないと、実務を任せられるリベラルな政治家がいなくて日本が本当に右傾化してしまう。


一方で集団的自衛権を閣議決定でOKだとする人たちは、立憲主義というあり方を変えてしまうほどの欺瞞を妥当だとするほど、日本の安全保障環境は悪化しているのかということについて考えてみることが必要かもしれない。非常事態に何等かのルールが破られることを是とすることは、生活の中ではある。しかし、これは国のあらゆるルールの基本となっている憲法のことである。恐怖が事実を曲げて見せていないか。日本の法律にのっとって民主的にその座についた安倍首相はそれほどの脅威が存在している、という結論を出した。しかし諜報活動などの情報が市民に下りてくるわけではないので首相と一国民には情報量に大きな差があることを考えても、あまりに大きな欺瞞ではないだろうか。


2. 戦争できる国になってしまう

これはデモをしている人などのプラカードを見ると書いてある。「軍靴の音が聞こえる」派とでも呼ぼう。

→仮説2;国際社会の規範をどう捉えるか

安倍首相の閣議決定後の会見をみると、集団的自衛権を行使できるようにすることが抑止力につながり「戦争に巻き込まれにくくなる」と言っている。この抑止力という考え方は紛争を防止する手段として戦後の国際社会においては頻繁に使われてきた。推進派は抑止力を発揮して戦争を起こさないために集団的自衛権を行使できるようにする、という。一方、デモをしている人たちは、それが戦争に直結するという。同じ現象に対してこれだけ違う結論になってしまうのも面白い。

両者の結論にギャップが起きる原因の二つ目は国際社会の規範をどう捉えるか、ということだと思う。国際社会における諸外国の意思決定や実際の行動がどのようなメカニズムで決定されているのか、ということに対する認識だ。


もし、日本国憲法前文にある、この泣けてくるような崇高な理想を体現した部分を実現したいのなら国民国家の上にある権力を作る試み、「世界政府」をつくることを真剣に考えたほうがいい。

日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免れ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。(本当に素晴らしい理想だと思う)
なぜなら、 日本が「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼」しても諸外国がそうでないなら、その信頼は日本人を幸せにはしないからだ。
国際関係を考えるときに、よくやりがちな間違えの一つがこのことだと思う。国家という枠組みの上に強制力を持つような強い力が存在しない状況では善悪の基準や理想やルールが勝つのではなく、力が強いものが力の弱いものに勝つ、ということが起きやすい。
そういう意味では、国家の一つであるアメリカのパクスアメリカーナみたいなものや、常任理事国がやりたい放題の国連は世界政府としては機能しない。国際社会においては各国は自国の利益のために動く。とても残念なことだけれど、曲がりなりにも法律が機能している日本国内の感覚で、この問題と向き合うことは適切ではない。
「戦争するくらいなら侵略されたほうがまし」という論理を展開している人もいたが、それでは身勝手すぎて話にならない。

ちなみに下記のように日本のメディアに対する不信感と合わせて、主張している人もいる。でも、これについては真偽がよくわからない。

http://matome.naver.jp/odai/2140414329428483601?&page=1
NHKは下記の「WHO 自殺予防 メディア関係者のための手引き」に従ったのだ、という見方もある。ちなみに、多くの自殺報道で民放局においてガイドライン違反が行われていることも多々あるようだ。
http://www8.cao.go.jp/jisatsutaisaku/link/kanren.html
どちらにしても、人々が懸念するような現政権による報道コントロールが行われていないことを祈る。ちなみに、孫崎さんの本によると日本における報道コントロールは特にアメリカによって行われていたことが指摘されている。

<安倍首相と岸信介>
安倍首相は安保闘争の時に回りの反対を押し切って安保改定を成し遂げた祖父、岸信介と自分を重ね合わせているのだろう。だとしたら、官邸の周りでデモをすることは彼に対してはあまり効果がない。60年安保の時は国民からもっと大きな反政府・反米のうねりがあった(当時、日本はもっと若い国民を持った国家だった)し、岸自身は暴漢に刺されて死にかける、ということまで起きている。「国民の反対を押しきって国を守った」という祖父の成功体験が彼にはあるだろうからだ。それこそ死ぬ覚悟でやり遂げるつもりだろう。
岸信介は「安保改定がきちんと評価されるには50年はかかる」といったそうだが、安倍氏は「いま集団的自衛権をやっておけば日本は今後50年安全だ」と語ったそうだ。岸信介は政治について下記のように語っている。この徹底したリアリズムが安倍氏にも引き継がれているとすれば、論理やルールで彼らに正当性を迫ることはあまり意味がない。

「政治というのは、いかに動機がよくとも結果が悪ければダメだと思うんだ。場合によっては動機が悪くても結果がよければいいんだと思う。これが政治の本質じゃないかと思うんです」(戦後史の正体・P194)
ちなみに岸信介の再評価については下記の孫崎さんの本とか読むとわかりやすい。この本では岸による命がけの安保改定がなければ(以前の安保では米軍に日本防衛の義務はなく、日本にとって不利なものであった)、今の日本を米軍が守ってくれることはなかったであろうことが指摘されている。安保闘争のあった1960年から50年あまり。中国の台頭によって50年後の日本で自分が再評価されていることについて本当に予言していたとしたら、恐るべし岸信介、である。

戦後史の正体・孫崎 享 


反対派も推進派も自分達こそが正しいと思って活動している。この問題が難しいのは、単にそもそものルールや、善悪だけで判断するには失敗したときの影響度が通常の問題に比べて破格に大きいことだ。

安倍首相が岸信介なのか、ただのルール破りなのかは歴史が教えてくれるだろう。

追記;細谷さんのブログに法的な意味合いについては詳細がある。これによると、閣議決定は一定の筋が通っているようで、内容は一般的に使われる意味での集団的自衛権ではないようだ。しかも1997年の解釈の誤りを正しただけのような。だとしたらメディアが悪意を持っているのか、政府の説明が本当に下手なのか。そしてやっぱり解釈変更の閣議決定って変だ。現実的に考えて無理がある平和憲法のもとでの知恵ではあったのだろうけれど。
http://blog.livedoor.jp/hosoyayuichi/archives/1865199.html
今回の与党協議の結果として合意されたものの多くは、本来の国際的な一般理解による「集団的自衛権」ではなく、通常はそこには含まれない法執行活動や後方支援活動を可能にするための法整備です。攻撃された国に、医療品や食料、水などを提供することを、「武力行使」としての国連憲章51条の集団的自衛権に含めている国などは世界中で日本以外に一カ国もなく、これは驚くべきほどの恥ずかしい内閣法制局の「誤解」と「無知」の結果なのです。
朝日新聞は世論調査で、「集団的自衛権の行使を容認すべきか」」と訊いていて、それに反対する意見が多いことを強調していますが、それが全面容認ということであれば、おそらくは私も反対します。政府が今回の決定で行っているのは、きわめて限定的で抑制的な部分容認です。あたかもアメリカやイギリスと同等の水準で、集団的自衛権の行使が全面容認されるかのように報道することは、事実の歪曲か無知か、悪意かのいずれかです。

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