2014年10月6日月曜日

リベラルって何だろう

世界がすごい動いている。荒れている、と表現する人もいるかもしれないけど、歴史好きな人なら、今の国際情勢が歴史的な大転換の中にあることを思って興味を持たずにいられないだろう。今から100年後の人々が今の時代をどう判断するのか、想像するだけでもかなり興味深い。

で、こういう動いてる時代には人々の政治的なスタンスのようなものも揺れがちだ。

私は不勉強な人間なので、子供のころ(というかごく最近まで)無常件に好きだったジョン・レノンのイマジンが歌われた時代背景とか、その時大統領だった悪役ニクソンが結構大変な中で頑張ってたんだなあ、とか今になってわかることも多い。

ミュージシャンの政治的メッセージにありがちな、どちらかというと感情に訴えるやり方でとにかく、暴力はいけないよね、というメッセージに共感して思考停止してしまうには社会の変化が大きすぎるのと、悪役に仕立て上げられている勢力も細かく見ていくと彼らなりの理由があったり、そしてそれは切実なものだったりするので、絶対的な悪というものは世の中には存在しないんだなあ、ということを今更思ったりする。どちらの側がより多くの人の平穏な幸せを守ったのかは、視点を変えると全く違って見えることもある。

こういう時には哲学・思想の原書をたくさん読みたい気分だけど、残念ながら今はそういう身分ではないので昔読んだこの本を引っ張り出してきても一回読んでみた。


アメリカのリベラルの歴史は、日本が平和を享受しながらぼーっとしていた時代に、当事者として安全保障という切実な問題に向き合いながら、社会に自由と寛容とフェアさを持たせようとしたアメリカ人の葛藤の歴史でもある。


そしてたぶん今の日本の左派に必要なのは、現実と哲学的な理論との折り合いをつけながら、新たな理論構築ができる哲学者なんだろうなあ。ロールズ的な。そういう意味で、ロールズがアメリカの政治において果たした役割はとても大きい。彼の理論が後世においてどれだけ批判されようと、この価値は消えないだろう。

アメリカの現代思想・仲正 昌樹


以下、メモ。

<リベラルという言葉の語源と定義>

この本を読むとよくわかるのだけれど、「リベラル」という言葉の定義のようなものは時代背景によって変化している。以前は「リベラル」だと認識されていた思想が、社会が変わっていくにつれてそれほど「リベラル」と認識されなくなったりしている。語源を確認すると、リベラルの語源は、ラテン語の「liber」で、政治的・社会的に制約されない、という意味だという。
ちなみに、ハンナ・アーレントは「革命について」の中で「リバティ」と「フリーダム」の違いについて次のように説明している。
人々を拘束・抑圧状態から解き放ち、移動することを可能にする「解放」は、「自由」の前提条件であるが、それだけで自動的に「自由」をもたらすわけではない。英語には「自由」を表す言葉として(ゲルマン語系の)〈freedom〉と(ラテン語系の)<liberty>の二つがあるが、アーレントに言わせれば、<liberation>と語源的に繋がっている<liberty> の方には、拘束・抑圧の状態からの「解放」というネガティヴな意味しかない――これはアーレント独自の理解であり、英語の通常の用法としては、<liberty>と<freedom>の意味合いの違いはそれほど明確ではない。(P55)
(freedom〉の意味での「自由」というのは、彼女が『人間の条件』で描いた古代のポリスの公的領域における「政治」のように、市民たちが物質的な利害関係をいつたん離れて討論し合いながら、共通の理想を追求する状態を指す。我々の″人間らしさ″を支えている「政治的自由」こそが、「自由」の最も本質的な部分なのである。その場合の「政治的自由」というのは、当然、単に権力によって政治活動に干渉されないというような消極的なことではなく、「政治」を構成する討論に参加し、共同で「政治」を再構成する営みに従事しているということである。 (P56) 

<王政・全体主義に反対する立場としてのリベラリズム=古典的自由主義>

エーリヒ・フロム 「自由からの逃走」
フリードリヒ・ハイエク
ミルトン・フリードマン
ハンナ・アーレント 「全体主義の起源」「人間の条件」「革命について」

→リバタリアン

ロバート・ノージック 「アナーキー・国家・ユートピア」

→アナルコ キャピタリズム

デイビッド・フリードマン 「自由のためのメカニズム」
ロスバード

<弱者にやさしい、という意味でのリベラリズム=社会自由主義>

「欠乏からの自由」
ケインズ主義者
ジョン・ロールズ 「正義論」→無知のベール、という概念
ロナルド・ドゥウォーキン

<リベラルに対する共産主義からの攻撃>

日本、ドイツなどの専制国家に対しては簡単に「進歩的」であることができたが、共産主義というロジックで「進歩的」だと言ってくる国家に対しては、位置関係が微妙になった。

いわゆる「リベラル」の定義が政治的な”左右”の間で、時代状況によって揺れ動いている、という指摘は興味深い。


<自由すぎることを批判し、共同体の観点をもつリベラリズム=コミュニタリアン>

アラスデア・マッキンタイア
マイケル・サンデル 「自由主義と正義の限界」 正義>善なのはおかしい
マイケル・ウォルツァー 「アメリカ人であるとはどういうことか」
チャールズ・テイラー(マギル大、ケベック出身) 多文化主義的なコミュニタリアニズム

-社会学系コミュニタリアン

ロバート・ベラー 「徳川時代の宗教」
アミタイ・エツィオーニ

<リベラルに対する両側からの理論的な攻撃>

ということで、リベラルはリバタリアン、コミュニタリアンの両方から、全く逆の角度で攻撃を受けることになる。

自由度が足りないという批判(リバタリアン)リベラル自由すぎるという批判(コミュニタリアン)


*ただし両者が定義する自由は微妙に異なる

リバタリアン;個人の個々の行動における選択の幅に関わる制度的な「自由」(短期的)
コミュニタリアン;個人の生き方や価値観の多様性に関わる哲学的な「自由」(長期的)

<リベラルに対する保守派からの攻撃>

アメリカの伝統的な価値観を大切にすることを主張する「宗教右派・福音派≒ティーパーティ」の人たちの下記①については弱者を守るリベラルとして反論しやすいが、②についてはあくまで価値観の問題なので反論しにくい。(この指摘は、今のアメリカの政治状況をよく表してるなあ、と思う。)

男女平等、中絶や同性愛などをめぐる個別の問題

家族、学校、教会、地域共同体を中心に培われてきた伝統的な価値観を大事にすべきである、という「信仰の自由」あるいは「内心の自由」に関わる問題
「リベラル」の側が、価値中立性の立場からの「内面不干渉」の原則を保持し続けようとする限り、「保守派」の主張の核心部分に対して、有効な批判を加えることはできない。それが「リベラル」にとっての大きなジレンマである。「保守派」は自らの価値観・世界観に基づいて、「リベラル」の「価値中立的」な――保守派に言わせれば、「価値中立的」と見せかけながら、実は「反伝統文化的」な――態度を批判しやすいが、「価値中立性」を建前とする「リベラル」は、何らかの特定の価値観・世界観に基づいて、相手の価値観・世界観それ自体のおかしさを批判するということをやりにくい。そういう哲学的対立図式を作ったら、「リベラリズム」が特定の価値観・世界観になってしまうからである。(P154)
<保守派のロジック>
ロバート・ニスベット リベラルな専制に対する批判
アラン・ブルーム 「アメリカンマインドの終焉」

 <差異の政治派>

ウィリアム・コノリー

<ポストモダン左派>

ジャック・デリダ
ガヤトリ・C・スピヴァク

<リベラルな多文化主義>

ウィル・キムリッカ(カナダ) 「リベラリズム、共同体、文化」 「多文化時代の市民権」

<フェミニズム>

-ラディカルフェミニズム
ケイト・ミレット 「性の政治学」
キャサリン・マッキノン 「セクシャル・ハラスメント・オブ・ワーキング・ウイメン」

-リベラル・フェミニズム

スーザン・モラー・オーキン 「正義、ジェンダー、家族」


-フランクフルト学派
フレイザー

<リベラル・アイロニスト>
ローティ『哲学と自然の鏡』 「哲学に対する民主主義の優位」『偶然性・アイロニー・連帯』

「プラグマティズム」をアメリカ特有の左翼思想とみなし、重んじる、ローティによる下記の「文化左翼」批判は日本においても十分に参考になる。

「経済」の仕組みをあまり考えず「文化」にばかり力を入れる左翼のことを、ローティは「文化左翼」と呼ぶ。ポストモダンの影響を受けた「文化左翼」は、「差異の政治学」とか「カルチュラル・スタデイーズ」などを専門とし、差別の背後にある深層心理を暴き出すことに懸命になる。彼らはフーコーの権力批判やデリダの「正義」論など、ポストモダンの言説に依拠しながら、現在の体制の下でのいかなる「改善」にも意味がないことを暗示する。ローティに言わせれば、「文化左翼」は、半ば意識的に反アメリカ主義にはまっている。彼らが「アメリカを改良することはできない」という前提に立って、″差別を構造的に生み出すアメリカ社会"を告発し続ける限り、いかなる現実の改良も生み出すことはできない。彼らは口先だけはラディカルであるが、現実の(経済的)改革には関心を持たないので、実際にはただの傍観者に留まっている。(P209)
そして「「アメリカを改良することはできない」という前提に立って、″差別を構造的に生み出すアメリカ社会"を告発し続ける」の記述は、左翼とは「国内に問題がある」というバイアスを持ちやすい人たちである、という仮説(そして右翼は問題は国外にある、というバイアスを持つ)とも整合性を持つ。

「右翼と左翼の違いって何だろう」

http://managementxyz.blogspot.ca/2013/07/blog-post_19.html

<ロールズの新しいリベラリズム>

ロールズ 「政治的リベラリズム」
→「リベラリズム」を自己限定。「リベラリズム」とは、価値観・世界観の地勝ちを超えて万人が共有すべきメタ価値観・世界観のようなものではなく、価値観・世界観が異なる人たちが共存するための調整装置である
ロールズたち″主流派リベラル”が、特定の道徳的教説に依拠する必要のない「政治的リベラリズム」を前面に出すことによって、価値観・世界観をめぐる問題からさらに遠ざかっていく一方で、サンデルらのコミュニタリアンたちは、その逆に「政治」を道徳化する路線を強めていった。(P216)

<民主主義の問い直し>
・ラディカル・デモクラシー
 シェルドン・ウォリン 『過去の現前性(アメリカ憲法の呪縛)』
・共和主義的民主論
・討議的民主主義
・闘技的多元主義

<リベラリズムとデモクラシー>
自由主義;個人の自由な活動の余地を確保することが主眼
民主主義;集団的意思決定のための制度
本来、両者は相容れない部分も多いが、(自由主義も民主主義も認めない)前近代的で権威主義的な社会や、自由な討論の余地がない「全体主義体制」に対して闘いを挑まねばならない状況においては、「人々が自由に意見表明し、活動できる政治・社会状況を作り出し、民主的討論を活性化することを通して、民意を反映した国家を建設する」という共通目標の下に、「自由主義」と「民主主義」は共闘し、「自由民主主義」の名の下に結合することができる。第二次大戦直後から、冷戦最盛期である一九五〇年代半ばにかけてのアメリカや西側諸国にとって、そうした意味で「自由主義」と「民主主義」の一体性は自明の理であった。
しかし、最低限の「自由と民主」が確保され、かつ共通の敵がいなくなった状態で、「自由」と「民主」をそれぞれ充実させようとすると、対立が目立つようになってくる。(P223)

<グローバルな民主主義>

ロールズの理論のグローバル版が求められるようになる。

チャールズ・ベイツ『国際秩序と正義』
ポッゲ
ジョン・ロールズ 「万民の法」→リベラルでない社会に対して、リベラルな社会がどのように接すべきか


①平和を好み、外交や通商などの平和的手段を通して自らの正当な目的を達成しようとする社会であること、
② 「正義の共通善的構想に導かれた法体系」を有しており、国内の各種の集団の意見を政治に反映させることのできる代表機関や議会などの「道理に適った協議階層制」(reasonal consultation hierarchy)がそれに伴っていること
③生存権、自由権、財産権、自然的正義の原則によって明示される形式的平等などの基本的人権を尊重していること


ロールズに言わせれば、たとえ格差原理をグローバルに適用するための制度を作ることが難しいとしても、少なくとも基本的人権を中心に据えた「万民の法」を制定することは可能である。人権は、特定の包括的な道徳的教説や哲学理論に依拠する必然性はないからである(P233)
このあたりの議論はイスラム国が幅を利かせる現在において、大きな示唆をもっていると思う。

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