2017年11月20日月曜日

おクジラさま:知的能力を生き延びるための条件とすることの意味

「おクジラさま」ふたつの正義の物語 をトロントのReel Asian Film Festival で観た。the Cove に対する反応として作られたこのドキュメンタリーは、アートコレクターの人生を描いたHERB & DOROTHYの監督でもある佐々木芽生さんの作品である。HERB & DOROTHYはとても好きな映画で、これを嫌いになるのはとても大変なのだけれど、一方で今回のテーマはセンシティブすぎて普通の人なら避けて通る主題である。

上映後の対談で、ご本人も仰っていたが太地町の漁師の人々に対する大きな共感をベースにもしつつも、あくまで葛藤する両者の視点をフェアに伝えていく、ということへの努力が映画においても、また上映後の対談においても貫かれていてとても好感が持てた。

捕鯨に対するこの対立を日本(アジア)vs西洋世界という対立軸として描くのではなく、ローカルvsグローバリズムという対立軸に置き換えることで、より多くの西洋世界の人々に両者の視点を共感を持って理解してもらうことに非常に成功していると思う。

上映後の視聴者からの質問の時間に白人男性から質問というか意見表明がされた。彼は「(シーシェパード)の白人の男性が旗のついた棒を持って他国に乗り込み、ブロンドの女性がその地の人々を侮辱する。(カナダあるいは北米において)これだけ原住民の人々の文化や生活を破壊しておいて、まだこんなことをしている。環境保護の活動というのは植民地主義と密接に関係している」というようなことを言っていた。カナダ人の白人男性にこれを言わせるというだけで、この映画がいかに問題の違う側面を見せることに成功している、ということを表していると思う。

佐々木監督は、特にアメリカのドキュメンタリー製作における「自らをヒーロー化して悪者を作り、それを徹底的に悪に仕立て上げる過程で極めてセンセーショナルな表現を行い、視聴者に強い印象を残す」という手法を批判しつつ、自分をヒーローにしたくない、ということを何度も仰っていた。映画およびこの監督のパーソナリティ全体としてこの映画の「フェアさ」を浮きだたせていて、うまいなあ、と思った。

知的能力を生き延びるための条件とすることの意味
この捕鯨の問題について、一つ引っかかるのが、反捕鯨側の論理的な根拠だ。


イルカやクジラは下記を理由として食べてはいけない。
ー人間に近い・賢い(知的能力)
ーかわいい(容姿の優劣)

これを根拠として持ち込まれることに非常に違和感を覚える。

これは言い換えると「知的能力の高い(賢い)種は、そうでない種に比べて生き延びるためのより多くの権利を持っている」ということになる。

これを人間に適応すると「知的能力の高い人は、そうでない人に比べて、より多くの生き延びるための権利を持っている」となる。

ナチスがやっていた優生政策の土台にあった論理にかぶるところもある。だからこのロジックは何を食べるために殺していいのか、ということを考えるにあたって使うにはちょっと危険な感じがする。世界的に広がっているヴィーガニズム(完全菜食主義者)の運動と合わせて、なんかとても気になる。(ちなみに食品の Vegan/plant based market は年々拡大していて、アメリカにおいては2.22bn USDに達しています)

以前に所有していた店舗の前に、サステイナブルなやり方で、フリーケージで飼育された豚肉のメニューに「Happy Pork」と書いたら、動物保護運動をしている人にひどく怒られたことがある。「そんなのただのマーケティグで、彼らがハッピーなわけがない」と。

全くその通りで私の鈍感さ全開の行為に対して平謝りするしかなかったのだが、彼らがなんでこれをそんな一生懸命にやっているのか興味があったのでいろいろと質問をしてみたら、屠殺場を襲撃してヤギを救った話とか、たくさんの武勇伝を教えてくれた。

ついでに、「じゃあ、木はテーブルになったりするし、植物は殺して食べるでしょ?彼らは殺してもいいの?」と聞いてみたら、「いいポイントだ。動物を救い終えたら次は木を救うことにする」という回答だった。そうなったら、彼は何を食べるんだろうなあ。

チベット人のフードアントレプレナーの友人が、「ヴィーガンの一部の人たちについて、彼らがそういう風に食べたい、というライフスタイルとしては尊重するけど、動物を食べない自分たちは食べる人たちより道徳的にえらい。という態度が好きじゃない」と言っていた。

「たとえ、オーガニックの野菜ばかり食べてるとしても、オーガニックの野菜を育てるプロセスではたくさんの虫を殺している。虫も動物も生き物であることに代わりはない。生きるということは他の生物の命を食べるということ」だと。彼女の後ろにお釈迦様が見えたような見えなかったような。

人間が「食べてもいい」生き物はなんなのかということを、知的能力に基づいてみんなのコンセンサスをとれる形で定義することは可能なのだろうか。

今のところ異論はあるにせよ、一応違法でないという意味では絶滅の危惧がない限りは、「人間以外の生き物」は食べてもいいという暗黙の了解があるのだろう。

で、その自由な状況に対して知的能力や容姿の優劣を前提としたストップが民間セクターからかけられると。そしてこれをきちんと定義しようとすると、じゃあ生物の中で、IQ が20以下だったら食べてもいいけど、そうでなければ食べてはならない、とかなるのかなあ。でその根拠は「たぶん」IQ20以上は殺されるのがとても辛くて、20以下はあんまり辛くなさそうだから、とかいう理由付けが喋れない生物の直接の意見はないのに、推測されて決まるのかなあ。ここカナダにおいては、働く動物の労働組合を作る、という運動もあるくらいだから動物と喋れる人もいるに違いない(ほんとか)。

グローバリズムとローカルの対立、伝統と人間の進化の対立という軸と合わせて、生きるということ、食べるために殺す権利ということを私たちは何に基づいて決断しているのか、という極めて哲学的な問いを問われているような気がする。

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