2014年2月6日木曜日

戦略論:孫子とクラウセヴィッツの違いとソフトバンクの孫さん

米陸軍戦略大学校テキスト 孫子とクラウゼヴィッツ /マイケル・I・ハンデル

孫子とクラウセヴィッツの違いを考えることで、より戦略に対する理解を深める、という本。戦争における戦略の本なので、経営に生かせない部分もたくさんがあるが、個人的には、孫子の有名な「戦わずして勝つ」という方法論(?)に対する現実的な突っ込みがもっとも大きな発見だった。


<欺瞞について>
クラウセヴィッツと孫子を比較したときに、大きな違いの一つは「欺瞞」に対する態度だ。「欺瞞」とは「インテリジェンス・情報」を使って、相手を欺くことでいかに自分にとって有利な状況を作り出すか、ということだ。これに対する認識が二人は違う。孫子は「欺瞞」を非常に評価するのに対して、クラウセヴィッツはむしろ「非重要なもので逆効果」であり、また掛けであり他に方法がないときの最終手段だと言う。これは孫子の「闘わずして勝つ」という方法論に対する理想と現実をよく説明している。孫武がこの考え方をもっとも理想的なものとして位置づけていたのに対し、クラウゼヴィッッはそれはほとんど例外的なものであり、実際問題として戦闘に代わり得るようなものは普通存在しないと考えていたようだ。
孫武の「武力行使は最後の手段である」という主張は、当時の中華の地に広まっていた儒教やそれに大きく影響を受けていた政治文化の裏返しともいえるであろう。フェァバンク教授の説によれば、孫武もまた初期の儒教の影響を受けており、社会的な風潮における精神性の優位という価値観を共有していたであろうとしている。この考え方(ある種のドクトリン)は、戦国時代を通じて世に出た諸子百家の思想と同様に、中国後代において出現する中国の王朝それぞれに引き継がれ浸透していくことになった。肉体を使う戦いについての栄光を認めることなく、儒家の考え方としては君子たるものは、自己の人格を形成するために古典教養に励み、ついには物理的な力によらずして目的を達成するものであるとする。この考え方が、皇帝の人としてのあり方を定め、この考えに則ることが皇帝の理想型であると位置づけ、古典においてもその旨が散見される。(P81) 
しかしながら、これは、西洋にくらべて中国史において武力戦が少なかったということではなく、中国における戦争の論理が、西洋と大きく異なるということでもない。中国では、実際のところ、理想と現実、理論と実際の間に大きなギャップが存在していたにすぎないのである。(P82)
残念なことに孫武(リデル・ハートも含め)は、最高と思われる間接アプローチをどのように見極めて実践するかについては具体的な説明をしていない。間接アプローチはいったん敵に見透かされてしまうと、逆に直接アプローチの脅威に曝されてしまう。つまり成功したものすべてが間接アプローチに分類されてしまうことになるのである。これは老練なビジネスマンが息子に対して次のようなアドバイスをするようなものである。「よいか息子よ、お前に成功の秘訣を教えてあげよう。安く仕入れて、高く売るのだ。そうすれば成功をおさめることができる」。しかし、このようなある種の自明の理が有する問題点は、抽象的すぎて実際の道具として用立てることができないところにある。(P87)
ここで言っている間接アプローチとは欺瞞も含む実際の戦闘以外の方法論のことを指すようだが、最後のパラグラフはリーダーシップ論で言われていることと似ている。例えば、後付でいろんなことが言えるけれど、成果に対する貢献度の高さをリーダーシップにおくことはなんとなくそれっぽいが、本当はどうかわからない。後付で成功したものの要因すべてをリーダーシップに起因させることも可能だ。


<分析のレベル>
しかし筆者によると、これは二人の見解の違いというよりは「対象に着目する際のレイヤーの違い」である。クラウセヴィッツがどちらかというと下層の状況を想定して議論を進めるのに対し、孫子はもっと広く高い目線で戦争を含めた戦略を語る。
これは下位の戦術レベルで用いることを想定して「戦争論」を書いたクラウセヴィッツと、権力者へのご意見番として発言をしていた孫子のそもそもの書いた目的の違いを考えれば当然なのかもしれない。

<合理的決断と予測可能性について>
孫子は「信頼に足る情報に基づいて合理的予測を立てることは可能」だとしているのに対し、クラウセヴィッツは戦場は不確実性が高いため、合理的決断の実行や緻密な準備などはあくまで「努力目標」にすぎず、なおさら予測は不可能だとしている。
しかしながら、クラウゼヴィッッのほうが、合理的計算による見積もりに依存することの難しさをより強く意識しているようである。予期せぬ衝突や摩擦、偶然の左右する機会、不確かな情報、複雑性といったものから受ける摩擦が武力戦の様相に及ぼす割合を強調し、合理的計算による見積もりに基づく勝算の効用については、より限定的に評価している。この点についていえば、ククラウゼヴィッッは、孫武以上に現実的であり洗練されているといってよいであろう。(P69)
だからといって、合理的な予測を立てることが無駄だ、ということにはならないと思うが。クラウセヴィッツが言っている優れた指揮官の直観は、脳に蓄積された過去のパターンと合理的計算によって鍛えられた思考力によってかなり影響されるはずだ。

一方、 二人が同じように強調するのが、「量」の大切さだ。
勝利は絶対的な兵力数の優勢により左右されるということが強調されなくてはならない一方で、孫武もクラウゼヴィッッも、戦争を遂行するうえで重要なことは、戦争全体でみたときの絶対的な兵力数の優勢ではなく、むしろ決定的会戦や交戦地点における相対的な兵力数の優勢であるとしている。したがって、絶対量で数的な劣勢にはあるが、良質なリーダーシップにより統率された軍隊は、この考え方を巧みに採用することで勝利し得るとしている。つまりは、絶対的な兵力数の優勢がいつも必ず勝利に結びつくということではなく、特に、兵力同士が直接接触し衝突するわけではない、より高度な戦略レベルにおいてこのことがあてはまる。ただし、他の条件を同じとして考えた場合、実際に交戦がなされる要点においては、やはり兵力数の優勢は大きな意味をもつことになる。(P109)
これはソフトバンクの孫さんの次の言葉を読むとイメージがわきやすい。孫さんは孫子の兵法読んでるんだろうなあ。

http://business.nikkeibp.co.jp/article/interview/20121207/240694/?ST=print
戦は知恵だけでは勝てない。兵力がないと勝てない。兵力とはボリュームです。これがないと相手に対する交渉力を持ち得ない。
現在、日本の家電メーカーがことごとく大赤字に陥っています。これは世界市場という戦う場から自ら降りた結果にほかならない。小さくても美しい経営などと言っていると、小さく醜い経営になってしまいます。世界的なスケール感を持ってチップメーカーからコンテンツメーカー、ハードウエアメーカーと交渉しなければ生きていけない世の中になっているんです。「韓国サムスン電子や台湾の台湾の鴻海(ホンハイ)精密工業はバブルの真っ最中にいて、自分たちは品質で勝負」などと言っている時点で言い訳をしながら戦いの場から降りただけに過ぎない。日本企業は今どうなっていますか。リストラの嵐です。これは成長、拡大を諦めた結果です。  
事を為すということは、企画力や技術力に加えて、数の力を取りに行かなくてはならない。 
そして孫さんは、「欺瞞の大切さ」についても配慮している。 
米国ではまだ「ソフトバンクとは何者か」という状態です。知名度は無い。一時的に批判されても構いません。ただね、僕は自分の戦略や手の内を早々にさらけ出したいとも思わないんですよ。織田信長のように「尾張のおおうつけ」くらいに馬鹿にされているほうが、マークされずに勝つ確率が高まるんです。 
また下記の孫さんの発言は、
アップルやグーグルといったOTT(Over The Top)プレイヤーは決して戦う相手ではないんです。むしろパートナーシップを結ぶべき相手だ。いかにこうしたOTTプレイヤーとの間で強力なパートナーシップを結べるかというのが鍵を握ります。ネットワーク対端末という構図自体がレベルの異なる発想です。ちょっと話をし過ぎたかもしれない(笑)
下記の孫子の言葉を実行しているようにも思える。
敵の行動に我が行動をあわせることにより、敵を自己の欲する方向に誘導し、その一方で、我が方は敵に悟られることなく兵力を集中せよ。そうすれは、千里離れた敵将といえども、討ち取ることができよう。これこそが、誰道〈誰計・機略〉によって目的を達する者といえる(P113)
 これ読んでると、そのうち孫さんはハードにもチャレンジするんじゃないかなあ、と思える。ネットワーク、ハードウェア、コンテンツを揃えたうえで今のOTTプレーヤーを凌駕することを考えているんじゃないだろうか。決してその意図は見せないけれど。

政治も含めた非常に広い観点から戦争を考えた孫武と、もっと具体的な戦闘をイメージしながら戦争を考えたクラウセヴィッツ。筆者も言っているようにどちらも大事な視点でかつ有用なもので、二人の理論は補完関係にある。

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